(事務所開設案内)

 当事務所は白石川堤の「一目千本桜」と目と鼻の先に位置し、当事務所のバルコニーに出ますと、千本桜の樹列を間近に見ることができます。開花に誘われて白石川の堤に上がれば、その眺望はまさしく一目千本桜! 日本さくら名所100選に選ばれたことも、さもありなん、と納得します。その満開の桜並木の樹下には、多数の人々が、桜花を愛でながら列をなして行き交っています。この千本桜の植樹には、妻の祖父が大河原の町議として関わったと聞いていますが、そのときの植樹に関わった人たちはすでに逝きました。植えられた桜木は成長して老大木となった今も毎年花を咲かせ、大河原町民はもとより、観桜に訪れた多数の花見客を感動させてその心を和ませます。その中に外国人も多く見られるようになりました。                                       当事務所を開設した私は、昭和46年4月に任官して盛岡地方裁判所判事補となり、雫石上空で起きた自衛隊機と全日空機の衝突事故の第1回刑事公廷では左陪席としてテレビに出ました。その後間もなく同地裁民事部に異動し、3年間の任期を終えて転出し、主に民事裁判などを担当していましたが、任官10年目に東京地方検察庁検事に出向して被疑者を取り調べたり刑事公判に立会う経験をしたことから、裁判所に戻ったのち刑事裁判を専門に担当し、平成16年11月福島家庭裁判所を最後に裁判官を辞して東京蒲田の公証人となり、70歳の定年となって退任しました。その模様は、新潟大学の法学会誌に「司法は個に拠る」のテーマで載っており、ネット検索で読めます。              私が弁護士登録をしたのは、別に弁護士となりたかったわけではありません。民事裁判を担当したかったのに、東京地検に出向したことから、その後刑事裁判を専門に担当することになり、こともあろうに死刑判決を起案する羽目となりました。そのときの経験から、裁判員となった方の受ける精神的苦痛は痛いほどよく分かります。かといって、私は、民事裁判を担当しても決して心は晴れませんでした。そのときの得た結論です。喧嘩は止めなさい! 喧嘩して良いことは一つも無く、ことに裁判沙汰は決して望ましくありません。裁判で白黒を付けてもらって良い結果となった例しが無いからです。裁判で白黒を付けても、人の心に禍根として残ります。子の代まで引き継ぐこともありますよ。       私は、これまで公証人として遺言公正証書を約1900通作成し、新任公証人の研修では5年間任意後見の講座を担当するなどしました。そのときの経験から人生のエンディングの法的設計を説いています。また、私は、離婚に関する公正証書も約500通作成しました。つまり約1000人の方が完全に離婚するお手伝いをしてしまったわけです。親は離婚することで良かったのでしょうが、子は大いなる被害者です。私の前で、両親が座って公正証書に記載された合意内容を確認しており、その最中、母親の横に座っていた幼子が、無邪気に父親にまとわりつく様子をを見て、私はとても心を痛めたのです。離婚は最悪の選択。やむなく離婚した場合、子の健全な成長のために、両親で協力して下さい。親として当然やるべきことなのです。しかし、いがみ合った夫婦には難しいことでしょう。そこで、私は、元家庭裁判所調査官の立ち上げた家庭問題情報センター(FPIC)の会員の方に関わって貰うようにしました。夫婦間のトラブルの調整や子の面会交流には専門家が立ち会う必要があります。素人がやると、傷口に塩を塗る結果となることがあります。そのようなことを担当するFPICの相談室が、他の地方にはできているのに、東北や北海道にはないのです。そこで、私たち夫婦が、FPICの相談室を仙台地方に設けるため動くことにしました。私の妻は、FPIC東京相談室所属の正会員として長年子の面会交流などに関わってきたからです。FPICの相談室を開設するにはその場所が必要です。そこで、私が、弁護士登録をして法律事務所を設け、そこをFPICに利用してもらおうと考えたわけです。本当は、仙台市内にFPICの相談室を設けたいのですが、年金生活者である私にはそのような資力が無く、まず、県南の大河原で始動することにしたのです。現在は通信網が発達しており、必要な情報は、電話やファックス、メールで瞬時に交換できます。また、車社会の現今、当事務所の入居しているビルは利用しやすいところにあります。そこで、私ども夫婦のこれまでの経験が生かされてこの地で花開けば望外の喜びであり、その願いを込めて千本桜法律事務所と名付けました。